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 囲碁の話(2009年)

12.5 忙中閑なし
   碁石を握ったのは、11月15日が最後だったろうか。
   11月27日の県民文化祭も出場キャンセル。
   新米農家は芋に夢中になって、碁から気持ちが離れちゃってます。
   でもそうしないと、春先までに芋出荷作業が終わりそうもない。
   今年は、12月23日の市民大会のみ出場予定だ。
       
11.25 あっちへ行け、八段位
   長い間、日本棋院のアマチュア最高段位は六段だった。
   その後七段が許され、5〜6年前八段が許された。
   その時「日本棋院創立80周年記念 特別紙上認定」という
   イベントがあった。、
   問題20問を回答し、規定の点数で八段までの取得が可能
   というもの。
   芋太郎も挑戦。来る日も来る日も来る日も考え続けた。
   そして応募。結果はなんと”八段合格”。
   じつは規定では七段合格の点数だった。
   しかし日本棋院内では、プロ棋士から「問題が難しすぎる。
   プロでも難しい問題も多い。」
   と指摘が続出、合格点が下げられたのだった。
   
   免状申請書が来た。六段免状所持者だから、
   免状料(日本棋院は寄付金と言う)が、通常は1,509,000円。
   日本棋院創立80周年記念なので特別に1,000,000円とのこと。
   いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、…、…。
   ひゃっ、ひゃっ、ひゃっ、ひゃくまんえんだって。 要らん。
   免状=棋力+金力、と言う時代になっていたのだ。
   いや、昔からそうだったのに、気が付かなかったのか。
   免状は貧乏人に似合わない物だとしらしめられた。
八段合格 
11.5囲碁から出た言葉(その1)…生活の中のことば
   囲碁は日本に伝来してからでも、1,500年経っている。
   だから、生活の中で使っている言葉にも、囲碁からきた言葉が
   結構ある。

   布石…打ち始めに、石を要所要所から先に置いていき、陣形を
      組立てること。
      後々のために、事前に手を打っておくこと。
   序盤…対局開始後の、布石の状態。局面。
   中盤…序盤の次の、本格的な戦いの局面。
   終盤…勝負が終わりに近づいた、寄せの局面。
   局面…勝負の形勢。
   中押し(ちゅうおし、なかおし)…負けを認め、終局前に対局を
      放棄する(投了)。一方的に勝つこと。
      よく野球解説で、ダメ押しの場面で誤使用の人がいる。
   定石…昔から研究されてきて、双方最善とされる決まった
      打ち方。将棋の場合は「定跡」と書く。
   先手…先に打つと、相手が応じなければならない手・局面。
   後手…自分の着手に対し、相手が受けてくれず、他の好所に
      先着されてしまうこと。
   捨て石…自分の形勢を有利に導くため、相手に取らせる様に
      打つ石。
      大きな目的のため、その場では無用とも見える物事を
      行うこと。自民総裁選の、谷垣氏の言葉の中にもあった。
   上手(うわて)…対局者のうち、段位・力量のすぐれた方。
   下手(したて)…対局者のうち、段位・力量の劣った方。
   手入れ…自陣の欠陥部所を補うため石を打つこと。
      よい状態を保つため、手を掛けること。
   手違い…手順を間違える。
      商売上のもくろみがはずれる。
   目算(もくさん)…対局中に相手と自分の地を計算すること。
      こうなるだろうという予測。
   筋違い…的外れ、かなあ。
   駄目(だめ)…黒と白の境にあって、どちらの陣地にもならない。
      用をなさない、効果がない。
   駄目押し…駄目に石を入れて確かめること。
      確実とわかっていても、さらに念を入れ確かめること。
   一目置く…弱い者が、先に一つ石(ハンディ)を置いて対局を
      始める。
      自分より優れていることを認め、敬意を払う。
   死活問題…死ぬか生きるかにかかわる問題。
   名人…江戸時代は最高位の技量の者が九段で、名人。
      八段は準名人。現在はタイトルの名称。
      技や芸にすぐれている人。
   八百長(やおちょう)…八百屋の長兵衛さん(通称 八百長)は
      碁の名手だったが、上客の相撲の年寄りに対し、わざと
      負ける接待碁をしていた。
      前もって勝敗を打合せておいて、うわべだけ真剣に勝負
      すること。
   岡目八目・傍目八目(おかめはちもく)…
      碁はそばで見ている時のほうが見通しが利き、対局者より
      八手先まで手が読める。
      ものごとは当事者よりも、第三者のほうが良い考えや判断が
      出来る。
     ことわざ、格言は別途やります。
     
囲碁格言扇子 
10.25 色紙(その5)…加藤正夫プロ
   この色紙は本人からではない。誰かに頂いた。
   色紙と関係ないが、加藤正夫九段に会った時のことを書く。
   
   加藤プロは、昭和42年(20才)四段で本因坊リーグ入り。
   昭和44年には早くも本因坊挑戦者になる。
   以後昭和50年まで、タイトル戦8連続準優勝の珍記録。
   昭和51年碁聖位獲得。以降は十段・本因坊・天元・王座・鶴聖・
   名人・NHK杯・NEC杯・アコム杯・竜星戦と次々タイトル奪取。
   5,297日(14年6ケ月)連続タイトル保持は史上最長記録。
   平成14年、55才3ケ月の最年長で本因坊獲得。
   公式戦通算勝ち星1,254勝は史上3位。
   平成16年日本棋院理事長就任。しかし同年没(57才)。
   超一流の棋士だった。
   
   ずっと以前「トッププロVS企業のNo1打ち手」の様な企画があった。
   当社にも声が掛かり、K暮六段(No1)と芋太郎(囲碁部長)が
   日本棋院に出向いた。
   K暮六段の相手は加藤プロだった。
   芋太郎、加藤プロと名刺交換させて頂いた。
   見れば加藤プロ、ハンチング帽を被っている。
   こちらの問いに「中国に負けたので頭を丸めた」と言う。
   ハンチングを取ると見事な坊主頭。
   
   1984年から「日中スーパー囲碁」が始まった。
   各8名の棋士による勝抜き戦。
   当時は日本が世界のトップで、中国に胸を貸す程度に思われた。
   しかし始まってみると、日本の大苦戦。
   お祭り気分は吹っ飛び、真剣勝負となった。
   第一回のこの時、加藤王座(当時)も負けている。
   相手は、後に「鉄のゴールキーパー」と呼ばれた聶衛平九段。
   最後の主将戦も、聶衛平九段が藤沢秀行名誉棋聖に勝ち、
   8−7で中国の勝利。
   当時、負ければ頭を丸めるくらいの心構えでやっていたのだ。
    
加藤プロ色紙 
10.15 色紙(その4)…青木喜久代プロ
   8/15付で熊谷本因坊戦のことを書いた。
   当日は本因坊戦の隣の部屋で指導碁が打たれていた。
   本因坊戦の合い間に指導碁を覗きに行った。
   知り合いのI五段が青木プロの指導を受けている。
   洒脱なI五段、軽口を叩きながら楽しんでいる。
   お陰で芋太郎もプロと二言三言交わせた。
   
   囲碁の世界は男女の区別はない。対等に戦う。
   将棋の様に、男性棋士に勝ったとニュースにならない。
   その中で青木プロ、女流では最高の八段である。
   2005年に公式戦400勝達成。これは女流棋士史上で6人目、
   最年少(39歳0ヶ月)、最速(入段後19年2ヶ月)だった。
   タイトル獲得数は、女流名人5期等合せて10個 は女流最多タイ。
   大したものである。
   
   大会が終わり表彰。入賞者以外にも多数の賞品。
   芋太郎、運良く青木プロの色紙を貰えることになった。
    
青木プロ色紙 
   
10.5 聖天山の彫刻
   8/5付で、 熊谷本碩(くまがい ほんせき)と妻沼聖天山
   の保存工事のことを書いた。
   建物は未だだけど、彫刻は完成しているのだそうだ。
   熊谷支部長さんに、その写真を頂いた。
   
   右上が聖天堂奥殿の「布袋・恵比寿碁打ち大黒・酒」
   で、熊谷本碩の棋譜で復元したもの。
   下が熊谷本碩の棋譜
   (1697年6月26日 於本因坊宅 手合:黒先コミなし
    黒:熊谷本碩 白:本因坊道策 1〜114手迄)
   
   右下は、もうひとつ聖天堂本殿玄関欄間にあり、
   「琴棋書画のうち囲碁の図」。こちらは13路盤。
   こちらも熊谷支部長さんが、中国の古典「玄玄碁経
   (げんげんごきょう)」から棋譜を選定したもの。
   「玄玄碁経」は別の機会に触れたい。
聖天山彫刻 
熊谷本碩棋譜 
9.25 色紙(その3)…武宮正樹プロ
   アマチュア対象の武宮杯というのがあった。
   秩父市定峰の明王院で、年一回行われた大会である。
   ここは秩父の山の中。初夏の爽やかな風が窓から入る。
   立派な能舞台まである。
   
   ご存知武宮正樹九段は、「宇宙流」でアマチュアには絶大な
   人気だ。タイトルも沢山獲得している。
   多才で、以前はレコードデビューもしている。
   平成15年には、バックギャモン最高位「盤聖位」になっている。
   
   その武宮プロが、スランプの時この山の中にこもってジョギング
   したりした。そんな縁で、明王院主催の武宮杯が始まったと聞く。
   明王院関係者の、心のこもった手作りの気持ち良い大会だ。
   昼食は、屋外で煮炊きして作ってくれる。
   武宮プロとの2ショットの写真も、撮ってくれる。
   収益金はアフリカの子供達の援助に使われる。
   そして武宮プロは、息子の陽光五段又は女流プロを同行して
   来るのが常だ。
   
   芋太郎、大会の成績はいつもイマイチだった。
   しかし、大会後の大盤解説の「次の一手」が当たった。
   武宮プロ本人が、「これは日本棋院売店で30,000円で
   売っているやつですよ」と手渡してくれた。
   平成16年、17年と二年連続で頂いた。
武宮プロ色紙2 
武宮プロ色紙1 
9.15 色紙(その2)…小松藤夫プロ
   4/10付で六段免状のことを書いた。
   その時小松藤夫八段(こまつ ふじお 当時七段)から頂いた
   のが、この色紙である。
   六段昇段試験の手合いは、五段以下のプロとは2子の置き碁、
   六段以上のプロとは3子の置き碁。勝てば免状をもらえるという
   もの。【但し、現在この昇段制度は無い】
   「五段以下のプロとは2子の置き碁」というのはアマチュア側
   には相当きつく、並のアマ六段ではまず勝ち目がないハンディ
   だ。3子だって難しいが、まあ3子でよかった。
   
   そして芋太郎の碁。
   普段仲間内からなまくら≠セのさび刀≠セの目ん玉に
   手を突っ込んで来る≠ネどと揶揄されてる力碁なのに、今日は
   どうだ。
   緊張と、プロに潰されまいとで、いつもと違うよそいきの手ばかり。
   これでは最初から上手のペース。中盤にさしかかる頃には、3子
   の置き石の効果は無くなっている。
   で、ここから頭の切り替え。いつもの様に打ちたい所へ打つ。
   やがて形勢逆転に成功、勝ってしまった。苦節22年、六段位。
   アマに逆転を許すとは、プロも気の緩みがあったか。
   局後の昼食の時、「芋太郎さんとのは、僕が負ける碁では
   なかった」小松プロ悔やむことしきり。
小松プロ色紙 
9.1 色紙(その1)…小川誠子プロ
   5/22付で小川誠子六段(おがわ ともこ 当時二段)のことを
   書いた。その時書いて頂いたのがこの色紙である。
   いつか社内囲碁大会の賞品にしようと思いながら、定年に
   なってしまった。
   小川プロは、14才で女流アマ選手権優勝。「おかっぱ本因坊」
   として当時話題になった。
   プロ入り後は、女流選手権優勝2期、女流本因坊1期、
   女流鶴聖1期、通算500勝(女流史上二人目)等。
   以前、徹子の部屋に出演した。又、NHK杯の司会を10年間
   務めるなど活躍。
   ちなみに、小川プロの旦那様は俳優の山本圭氏である。
小川プロ色紙 
8.15 熊谷本因坊
   毎年11月23日(天皇誕生日)に熊谷市で囲碁大会が開かれる。
   参加者は毎回160名を超え、地方の大会としては大きい。
   昨年は10回目の記念大会で、青木喜久代八段・酒井真樹八段・
   大沢奈留美三段・中島美絵子二段のプロ棋士を迎え、参加者
   200名近くの大盛会であった。
   
   あっ、忘れない内に言っておきます。あと5行程読み進むと、
   「なんだ、芋太郎の自慢話じゃん」と思われるのはわかっている。
   だから、「はい、その通りです」
   クラス別のハンディ戦だが、無差別級は「熊谷本因坊戦 本碩杯」
   として行われる。
   実を言うと、初代熊谷本因坊は芋太郎です。二期目も芋太郎。
   しかしその後は、三期目準優勝、四期目3位。さらに1回戦負け
   の時もあり、ジリ貧状態だった。
   昨年の記念大会、時間の余裕も出来、仕事の悩みも無く、安定
   した精神状態で臨めた。
   結果は、芋太郎七年ぶりの十期熊谷本因坊だ。やったぜ。
   自慢話で申し訳ない。
優勝カップ 
8.5 熊谷本碩(くまがい ほんせき)
     囲碁の始まりは四千年くらい前、中国と言われている。インドと言う説もある。
     古くから中国では、王様になるたしなみとして「琴棋書画」(きんきしょが)を子供に習わせた。
     琴は音楽、棋は囲碁、書は書道、画は絵のこと。
     紀元前770〜前221年の春秋・戦国時代に、戦略・政治・人生のシュミレーションゲームとして
     広まった。
     日本へは、五世紀ころ朝鮮半島を通して渡ってきた説が有力だ。
     大宝律令(701年)の中の僧侶令で、スゴロクやバクチは禁止、碁琴(ごきん)は禁止しない
     という法律が決められたとある。
     日本書紀には、奈良時代(7世紀)には囲碁を生業とするプロがいた、と記述があるという。
     江戸時代は幕府のバックアップもあり、囲碁界は黄金期を迎える。
     特に、本因坊道策(ほんいんぼう どうさく)丈和(じょうわ)秀策(しゅうさく)らは棋聖と
     称えられる。
     史上最強の棋士に、本因坊道策(1645〜1707年)を推すプロ棋士が多い様だ。
     道策には、五虎と呼ばれる小川道的・佐山策元・桑原道節・熊谷本碩・星合八碩の優秀な
     弟子がいた。
     この熊谷本碩(くまがい ほんせき 1678?〜1701年? 享年23歳)が我街武州熊谷の生れだ。
     
     話は変わる。
     日本三大聖天の、我が妻沼聖天山は今保存工事をしている。(H15/6〜H23/6予定)
     本殿の外壁は、左甚五郎作を始め沢山の彫刻がある。その中に囲碁を打っている彫刻が
     ある。碁盤上の石の並びが読めないので、修復工事に支障をきたしている。で、日本棋院
     熊谷支部長さんに相談が持ち込まれた。支部長さんは、熊谷本碩の棋譜から一局を選んだ。
     これで彫刻が復元されるという事を支部長さんから伺った。完成が楽しみである。
     
7.25 後から来た男
      良く行く碁会所に来る、S五段格がいる。
      彼は芋太郎と高校の同期で一緒に碁を覚えた。卒業時の棋力も似たようなものだった。
      芋太郎はその後も、囲碁に時間と心身を費やして45年間、現在に至っている。
      彼は碁はやらず、経済活動に重きをおいてきたようである。
      だから、彼とサラリーマンだった芋太郎の経済力の差は、月とすっぽんどころではない。
      雲の上の人なのである。
      数年前から彼が再び碁をはじめた。上達が早い。驚いた、いや、焦った。
      芋太郎の理屈としては、棋力においては、相当の差で芋太郎が優位でなくてはならん。
      だって45年間やっているんだから。
      かれはもう五段、上達するのは喜ばしいが、もっとペースダウンしてくれ。
      
7.15 行ったり来たり
      今は段位よりも、各人の持ち点の差で手合い割り(ハンディ)を決める場合が多い。
      私の行く2ケ所の囲碁組織もそうである。
      各人の持ち点は、一局毎に変わる。
      一局勝てばプラス1点、一局負ければマイナス1点。
      好不調で5〜10点はあっと言う間に上下する。
      
      よく打つ一人にS野6段格がいる。
      以前は芋太郎にかなりのハンディを置いて打っていた。
      だから芋太郎を「師匠」と呼んでいる。
      最近はメキメキ腕を上げ、段位も6段格になっている(芋太郎は7段格)。
      たまには持ち点が逆転する場面もある。
      そんな時は敬意をはらい、S野6段を「師匠」と呼び芋太郎は「弟子」になる。
      一局毎に「師匠」と「弟子」が行ったり来たりすることも有り得るのだ。
      
6.25 やむなく投了
      新聞に囲碁欄があるが、地方紙はアマチュアのを載せることが多い。
      1局を1週間にわたり解説し、対局者の紹介などもある。
      私も埼玉新聞に2度、上毛新聞に2度載せて戴いた。
      その内の1回の話。
      第39期埼玉名人戦 本戦トーナメント1回戦
      75手まで進み、我が方大優勢。相手ツブレ寸前。なのに77手目芋太郎6段、大ポカ。
      これ以降は相手大優勢、我が方敗勢。で、やぶれかぶれのヤケクソの勝負手連発。
      持時間各50分でスタート。早打ちの私は、いつの試合でも残時間タップリ。
      相手の残り時間は130手目で10分、146手目で5分、176手目で1分。
      190手目で30秒。終局までにはまだまだ相当手数があり、時間がかかる。
      形勢悪いが、ヤケクソ勝負手も奏功し時間切れで勝てる。しかし大問題がある。
      新聞碁は記者が記録しているので目立ち、人垣がすごい。大勢の人が見ている。
      勝ちたい、でも往生際悪く思われるのはイヤだ。”やむなく投了”した。
      当時の切り抜きを見ると、上記の時間描写と共に、時間切れを狙わなかった芋太郎6段に
      拍手を送るとある。
      こういう場面は多くはないが、いつも決断するのに一呼吸要る。
  6.1 朋斎会
      昭和48年、藤沢朋斎九段がアマチュアを対象に「朋斎会」を始めた。
      場所は市ヶ谷の日本棋院。1回/月、土曜日に開かれる。
      私はK君と一緒に、初回から入会した。1回/月の市ヶ谷通いがスタートした。
      朋斎先生は、毎回若手プロを3〜4人連れて来る。
      プロになったばかりの王立誠初段(当時)が、学生服姿で来たこともあった。
      又、直筆の扇子を大きなダンボール箱でどっさり持参し、成績が良いと貰えた。
      指導碁は10面打ちで、ハンディは全て2子。初回から私は朋斎先生に打ってもらえる
      事になった。進行するうちに他の9人は次々投了、私1人になった。
      それまで立って打っていた朋斎先生は椅子に座り、私と対座して対局となった。
      もちろん2子で勝てるはずもない。が、10人の中で一番低段者(初段)であろう私が
      最後まで持ちこたえた。ちょっぴり嬉しかった。
5.22 囲碁部長
      昭和42年、入社しました。
      入社4年目くらいの時、当時の囲碁部長が私を後任に指名し、退職してしまった。
      23才で社員15,000名の会社の(体育文化会)囲碁部の部長になってしまいました。
      張切った私は、当時人気絶頂の、小川誠子プロを招待する囲碁大会を計画しました。
      日本棋院に電話を入れると、「貴方を小川プロに紹介するから、自分で交渉して見なさい」
      と言われ、びっくりした。
      当日小川誠子プロが、JR高崎線に乗るべきをJR京浜東北線に乗ってしまった。
      当時はケータイも無く、2時間程パニックになったのはご愛嬌。
      その後、私の囲碁部経営も順調だった。
    
  4.10 免状取得履歴
      初段:昭和48年4月 東京駅八重洲口の日本棋院にて
         たしか受験料1,500円、4連勝で無料取得。和紙の立派な免状に感激したものです。
      二段:昭和48年8月 東京駅八重洲口の日本棋院にて
         4連勝で無料取得
      三段:昭和49年8月 東京駅八重洲口の日本棋院にて
         4連勝で無料取得
      四段:昭和50年5月 雑誌「棋道」の問題に応募して合格
         免状料は無料で頂く。無料とは、当時の日本棋院は太っ腹だったね。
      五段:昭和54年5月 市ヶ谷の日本棋院にて、五段位獲得戦
         五連勝・無料を目指したが、4勝1敗・半額負担で頂く。
      六段:昭和62年8月 所属支部にて昇段試験
         小松藤夫プロの5面打ち。3子の手合いで勝ち、受験料(15,000円)のみで頂く。
         プロを相手に、逆転で、我ながらよく勝てたもんだ。
                                       という訳で、免状6枚あります。
     (番外)将棋初段:昭和57年10月 雑誌「将棋世界」の問題に応募して合格。
       
 2009.4.1 囲碁の始まり。
       高校のクラブ活動に、当時はめずらしい「囲碁将棋部」というのがあった。
       最初は将棋を指していたが、1年の終わり頃碁を教えてもらった。
       面白くて、期末テストの最中も打っていて、「家に帰って勉強しろ」と先生に度々叱られた。
       高校卒業までに、3級程度に上達した。
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