四方山話(2011年後期) |
11/12/15 農業研修 今日(9日)は「先進地視察研修会」にバスで連れて行かれた。 当日の熊谷地方は初雪後雨。よりによって一番冷え込みの厳しい日だ。 理事長さんに『研修に行って来い』って言われれば、新米の土地改良区理事は 『はーい、行ってきまーす』って言うしかなかった。 バスの中、役員の挨拶だけだろうと思ったら車内研修だって。 今年の埼玉北部の稲作の出来の話程度はいいけど、「農地・農業用水等の 資源の保全管理をめぐる現状と課題」だって。 勝手にやってくれたまえ。 ☆ 午前中は、”三芳町・三冨新田”。 1694年(元禄七年)、川越藩主 柳沢吉保が原野の開発に着手。わずか 2年で完了した。 ・まず、幅6間の道を縦横に開く。 ・この道の両側を間口40間(72m)奥行(675m)の、一戸あたり五町歩(5ha) を区画し、180屋敷を配分した。 ・下の絵の通り、道路に面した表側を屋敷地、その次を耕地、一番後方を 雑木林とした。 ・屋敷林は、竹・けやき・杉・ひのき・樫を植えた。 竹は根がはるから地震対策、農具やカゴ等の竹細工の材料に利用。 けやきは夏の日陰作り、家の材木として利用。 杉・ひのきは家を作る時利用。叉、けやきと共に材木として売れる。 樫は火に強いから防火、飢饉の時は実を食用にできる。 ・耕地は三町五反(3.5ha)位を充てた。 「一人前の男子とは一日に五畝の畑を耕せるものをいう」ことから、 五畝(せ)単位に区画した。 五畝を基本にして年間の耕作計画が立てられた。 ・雑木林は、ナラ・エゴ・赤松が植えられた。 防風林として、叉燃料の薪、堆肥にする落葉の供給源とした。 ・開発当初はアワ、ヒエなどの雑穀の収穫で農業経営は安定しなかった。 1751年、さつまいもの種芋が入って来た。 さかんに生産され、「川越いも」のブランド名で不動の地位となった。 農民たちと川越藩の知恵と工夫。すばらしい。 けっこう学べた。 ☆ 午後からは ”加須市・種足野通川土地改良区(たなだれやどおりがわとちかいりょうく)” 240haの水田地帯だ。 田んぼ一枚10aだったのを、一枚1haの大区画に整備した。 ひやー広い。 参考になったのは、畦に草刈対策で「ヒメイワダレ草」を植え効果を上げてる。 |
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11/12/05 昔の電卓 ”クローズアップ現代”で小松左京さんのことをやってた。 一瞬”昔使った事がある電卓”が映った。懐かしい。 ☆ 昭和45年、現場から事務職に配置替えになり、初めて 電卓に出会った。 値段は、なんと30数万円だって言われた。 電卓1台で、当時のホンダN360、スバルR−2が買える。 電卓2台で、当時のカローラ、サニー、スバル1000が買える。 で、調べてみた。昭和42年、ソニーが発売。 幅262×高138×奥390、重さ6.3s、価格26万円。 設計部門に1台。購買部門に1台、生産管理部門に1台。 従業員8,000名の工場に3台。貴重な存在だった。 当時はまだ”そろばん”や”計算尺”の時代。 工業高校出だから計算尺はOKだけど、有効数字3桁だし。 そろばんは小学生の時、塾で4級止まりだったし。 そろばん、計算尺の話はとりあえず横に置いておく。 ☆ 昭和45年の、生産管理部門の工務課の工数グループ。 業務は、100〜200名の製造各課の工数集計と人員計画だ。 「工数集計」とは極簡単に言うと、 月毎に、車1台がプレス○分・板金○分・塗装○分・ 機械加工○分・組立○分で生産できたかを集計する事。 だから集計・計算・分析の毎日だ。 「人員計画」とはごく簡単に言うと、 毎月0.5%ずつ人員を削減すること。げん骨で。 100名の職場は、1年後には94名にしなければならない。 該当製造課と喧嘩(折衝)だ。 ☆ そんな訳で、電卓は必需品だった。予約しないと使えない。 電卓の思い出は、計算間違いの思い出も伴う。 だから楽しいということでもない。 |
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11/11/25 熊谷市産業祭 今年も熊谷市産業祭に行った。 なにせ今年は”農産物共進会”に初出品だ。 でも、それまでに掘った芋の中に、目標の出来の 芋は無かった。 まあ、とりあえず参加する事からだ。 ☆ 今年も大変な人出だ。 先ずは”農産物共進会コーナー”へ。 出品数の多いのは、大根・白菜・ネギ・きゅうり・米・ ゴマ・小豆など。 現在の作付け面積を反映してるのだろうか。 大和芋は昨年より減っている。 初出品のは入賞の見込みは無いのは分かっていた。 実際その通り。 まだまだ精進が足りない。 ☆ 屋外に出ると100店を超える出店だ。 相方に車のキーを預ける。 まずは酒店で”ワンカップ直実”をゲット。 続いて、鶏唐上げ・横手焼そば・焼き鳥を食す。 途中でワンカップ直実を補充。 これ別腹だって言い訳して、じゃがバター・大判焼き。 知人のいるそば打ち愛好会は、遠慮させてもらう。 腹を空かして行ったけど、やっぱり食い意地の 張り過ぎか。 夕食時にもこなれきれてない様だ。 「腹も身の内」 「腹八分」みんな忘れるのは、 貧乏育ちのせいか。 |
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11/11/15 社員食堂 大河ドラマ「江」に、草刈正雄サンが出ていた。 ほろ酔いでテレビを見てた新米農家の脳裏に浮かんだ。 「あっ、昔握手したことがあるぞ」と。 それは昭和40年代だ。 会社の食堂で昼飯を食べてたら、売れないタレントらしい 人が握手会の様なことをしてる。 一人ポツンと、周りは閑散。今なら考えられない光景だ。 こんな田舎町には居そうも無いイケメンなのに、我社の 女子社員達でさえも、あまり興味を示していない。 てもちぶたさの様だから、食べ終ってから握手してあげた。 ☆ ある日曜日の社員食堂は、ヤクルトスワローズの選手達が 来て、握手・サイン・グッズ販売などをしてた。 休日出勤してた日だった。 息抜きに冷やかしに行き、サインボールを1ヶ買ってあげた。 ☆ 種々な物品販売業者はしょっちゅう来てた。 ある時買った絵は、今でも玄関に掛かってる。 叉ある時買った碁盤は、いまでも使用してる。 生命保険販売の女性達もいたいた。 ”ちょと良い女だ”って話込むと、職場まで押しかけられる。 「この保険お勧めヨ、独身寮なの、年齢は、見積りしますネ」 って、まいっちゃう。 俺のことじゃないよ。 ☆ 冬になると、ダンスパーティ会場になった。 昔はあっちこっちの会社等で、盛んに開催されてた。 パーティ券も社内中で飛び交ってた。 (資格)試験会場にもなった。 講演会もやった。 野球部の、都市対抗大会出陣の激励会もやった。 社員食堂、大活躍だった。 ☆ 社員食堂には関係ないけど、 大河ドラマ「江」には、宮沢りえ様も出ている。 そういえば写真集「サンタフェ」を、¥5,000で買ったっけ。 小心者なので、本屋をやってる友人にこっそり頼んだ。 直ぐに後輩に、\3,000+缶コーヒーで譲ってやった。 マドンナの写真集は\10,000で手が出なかった。 |
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11/11/05 昭和51年のカルチャー・ショック 昭和51年、尼崎市へ赴任。数々のカルチャー・ショック があった。 今回は食に関する話。 ”カレーに生卵” カーセールスマンは、契約書にサイン貰い手付金ももらう。 主「夕飯食べていきなはれ」 セールスマン「はあ、頂きます」 出てきたのは、カレーライス。 でも、ど真ん中に生卵が鎮座してるぞ。 主「これが最高や、アンタも早よ食べい」と言いながら、 自分のはカレーとライスと生卵をかき回してる。 それまでセールスマンは、生卵のかかったカレーは 見たことも食べた事もない。 それに、カレーとライスもかき混ぜないで食べる。 他人が、カレーとライスを混ぜるのを見るのも嫌いだ。 「グチャグチャにするな」と言いたくなる。気持ち悪い。 ましてや生卵をかけそれをかき回すとは。狂気の沙汰か。 じっと我慢して食べるセールスマンであった。 大阪人は”カレーに生卵”が割と多いらしい。 ☆ ”レーコー” 喫茶店に入る。 セールスマン「アイスコーヒー」 ウエイトレス嬢「レーコーちゃう」 セールスマン「アイスコーヒー」 ウエイトレス嬢「あのー、レーコーでいいんですよね」 セールスマンは最後までレーコーとは言わなかった。 でもアイスコーヒーは無事出てきた。 冷たいコーヒーの略みたいだ。 ちなみに、¥300でコーヒー+ゆで卵+サンドイッチ の店があり、ここはいつも盛況だった。 ☆ ”焼きうどん” いきなり白いうどんが鉄板の上に放り投げられた。 太い。小指位の太さだ キャベツやらソースやら放り込む。 鉄板の上のを箸でつまんで食べる。 戦後の福岡県小倉市が発祥らしい。 当時まだ関東ではそういう食べ方はしてなかった。 ☆ ”酢だこ”が何処のスーパーにも無かった。 ”納豆”も見かけなかった気がする。 ”お好み焼き”が主食かいな。 とツッコミをいれたくなるほど、お好み焼き屋がわんさと あった。 ”水餃子” 当時、どんぶりの中を泳ぎ回る餃子はまだ見た事が 無かった。 |
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11/10/25 街で見かけた有名人 ”木原美知子” 大分以前の事だ。 四国に渡る宇高フェリーの出港時間に間があった。 で、岡山後楽園に行った。 芝生を散策してると、こちらに向かって来る2人がいる。 カメラマンらしき人、その前を歩くノッポの人。 スラッとして、逆三角形の上半身、小さい尻。 大きな瞳のその人は、水泳の”木原美知子”さんだった。 ☆ ”千葉紘子” これも大分以前の事。 京都苔寺を散策してた。 ある団体(ファンクラブ)、その中程に居た。 ♪ 誰が教えてくれたのか 忘れたけれど 折鶴を ♪ 無邪気だった あの頃 今は願いごと ♪ 折ってたたんで 裏がえし … … とこのへんにしといて の”千葉紘子”さん。 紛れ込んで一緒に歩く。 カメラを向けると、止まってポーズを取ってくれる。 サービス満点の人だ。 旧国鉄の、ディスカバー・ジャパンキャンペーンに乗って、 ”日本の美” ”全国各地の小京都” ”若い女性の旅行” が流行った。 歌は、「遠くへ行きたい」 「いい日旅立ち」 「瀬戸の花嫁」 などだった。 でも、小ヒットの「折鶴」が好きだったなあ。 ☆ ”海原 千里万理” またまたこれも大分以前の事。 阪急梅田駅から、うめだ花月へ行く途中に演芸場があった。 名前は忘れた。吉本興業とは別系列。客はいつもそこそこ。 その近くの公衆電話で話すのは”海原 千里万理”さんだ。 万理(現 上沼恵美子)さんが、怒り心頭で盛んに相手に ポンポンと文句言ってる。 姉の千里さんは、側でオドオドした様子。 見ると演芸場は、”海原 千里万理”の出演を告げていた。 うめだ花月行きは即中止、ここに入ることにした。 高座は大受け、大阪ラプソディも歌ってくれた。 万理「ほとんど私一人で歌ってるんですよ」も受けた。 この頃の 千里万理は人気絶頂だった。 ☆ ”つんく♂” これは2年前の事。 川中美幸ショーを見に行く高崎線の電車の中。 2年前のこのページに書いたので、省略。 |
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11/10/15 ざくろ酒 柘榴(ザクロ)がたわわに実った。 割れてきたので、野鳥に食われないうちに収穫。 久し振りに口にしてみる。 種が大きい、果肉が少ない。汁を楽しむ感じだ。 びわを食した時も、果肉の厚さに比べ大き過ぎる種が 不満だった。 でも、まあ楽しめる。 ざくろの場合は、「おまえそれでも果物かよ!」と 文句の一つも言いたくなる。。 ☆ 1.8リットルの焼酎にざくろの実1s。 氷砂糖は少なめにした。 容器が小さいので3つ。 上手く赤い色の酒になるだろうか。 2〜3ヶ月で飲めるらしいから、正月が楽しみだ。 |
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11/10/05 ”八代亜紀”と”南京玉すだれ” 昔の事なのに、鮮明に覚えている場面が間々ある。 ☆ 「サンテ全日本歌謡選手権」 審査員の淡谷のり子が、挑戦者の八代亜紀に言った。 『あなたのスタッフは馬鹿ですね。なぜあなたに シャンソンを歌わせるんですか。』 昭和45年から放送された「サンテ全日本歌謡選手権」。 司会はスリーファンキーズの長沢純。 審査員は、淡谷のり子・船村徹・平尾昌晃・山口洋子 他そうそうたる面々。 プロアマ問わず、10週勝ち抜けばグランドチャンピオン。 レコード会社から売り出してもらうことも出来る。 クラブ歌手だった八代も、出場して来た。 特に淡谷のり子は辛口の批評だった。 そしてなぜ演歌を歌わないのかと叱りつけた。 同じく挑戦者の五木ひろし(当時は五木ひろし に改名前)にも、『巻き舌で歌うな』と批評した。 二人共グランドチャンピオンになり、その後 大ブレークした。 淡谷のり子、大した器量である。 ☆ 「しろうと寄席」 『♪ あ さて、あ さて、さてさてさてさて、 さては南京玉すだれ、 ♪ ちょいと返せば鯉ののぼりにさも似たり、 ♪ 五月の鯉がお目にとまれば、東京タワーへ と早変わり、 ♪ 東京タワーがお目にとまれば元へとかえす。 ♪ あ さて、あ さて … … 』 昭和41年から放送された「しろうと寄席」。 司会は人気漫才師の晴乃チック・タック。 審査員は、桂文楽・一龍斎貞丈・アダチ龍光他。 こちらもそうそうたる面々。 挑戦し合格すると、「見習い」 「前座」 「二つ目」 「真打」と上がっていく。 挑戦者が演ずるのは落語・漫才・声帯模写などだ。 あるとき、この”南京玉すだれ”をやる人が出た。 初めて南京玉簾を見た。 威勢良く調子のいい掛け声と、すだれの素早い変化 が新鮮だった。 確か「前座」か「二つ目」で不合格になった。 歴史ある大道芸らしいが、実物は未だに見たことない。 |
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11/09/25 実りの秋 パッションフルーツを挿し穂して2年目。 6月に10個程花を付けた。よしよし。 ところが、実を付けない。 勝手に受粉するだろうと思ったのが間違いだった。 暑さが和らいだ9月、再び花が咲き始めた。 今度は筆を使い、しっかり人工受粉。 「おい、パッションフルーツ。おまえも草食系なのか!」 「自分で受粉も出来んのか!、しっかりせい」 叱りつけながら面倒を見てやった。 受粉して3日目頃から、ぐんぐん成長してる。 10個くらいは物になるだろう。 ☆ 柘榴(ザクロ)の枝の剪定を、2年控えてた。 赤い果実酒を作ろうと思っていたからだ。 柘榴は樹勢が強いから、毎年強く刈り込んでいた。 だから樹形は保てるが、実が付かない。 2年放置したので、実を付けている。 鮮やかな赤い果実酒のためには、熟したのが必要だ。 小鳥が突っ突くので、収穫の頃合いが難しいぞ。 |
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11/09/15 ”フォークリフト” 会社員時代一番長く(15年)所属したのが、物流部門。 120名の大きな課だ。 原則、全員フォークリフトの免許を取得する。 2回/年の試験で、受験迄に半年近くあった。 しかし、納入業者が使用するフォークの、給油・ オイル交換の為、乗らざるをえなかった。 今では無免許は有り得ないが、まあ28年前の事だ。 おかげで運転は上達、好成績で合格。 ☆ 1回/年、会社の技能五輪大会があった。 ある年、フォークリフト個人戦に出場。 選手の大半は毎日業務でフォークに乗っている人。 メダルには遠く及ばないが、88人中12位だ。 予想以上の好成績。 ☆ その後組織変更で70人程の課となる。 芋太郎、技能五輪大会フォークリフト部門の実務を 統括することになった。 課内に女子は10名いた。当然フォーク免許所有。 そこで、フォークリフト部門に”女子個人戦”を新設した。 出場する様課内女子を説得。幸い他課からも出場 申し込みがあった。 参加人員二桁にはならなかったが、とりあえず成功。 それまで女子種目はCAD(製図)等少なかったので、 大会に花を添え、物流部門のアピールにもなった。 ☆ ある年、業務目標にフォークリフト削減を掲げた。 工場内の保有は約350台。 ・ピッチタイムが上がったら(高操業になったら) 再配車するから、減らして。 ・廃車した筈のが何でここにあるの。取り上げるヨ。 ・牽引作業になぜフォークなの。モートラに替えて。 等々で30台削減。 ☆ 物流部門時代の、 @ ”南京縛り”を覚えたこと。 A ”フォークリフトの運転”を覚えたこと。 この2つの実技は、退職後も役立っている。 |
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11/09/12 中秋の名月 十五夜はススキを飾り、供え物をしてた。 箕の中に柿や栗も並べた。 づーっと昔からやっていた。 でも、我家は段々手抜きだ。 ススキ、萩、市販の饅頭、シンプルにこれだけだ。 伝統の消滅は、我家でも歯止めがかからない。 |
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11/08/25 昔の遊び…釣り お盆の時期は、なぜか昔の事を思い出す。 小学生時代の遊びの中心は、釣りだった。 随分のめり込んでいた様だ。 利根川と、支流の石田川と、その叉支流の小川だ。 ☆ ”えびがに釣り” ”えびがに”とは”アメリカザリガニ”のことだ。 スルメが餌だった。 当時スルメは安く、子供でも買えた。 スルメが無ければ、カエルを捕まえて餌にした。 後は棒切れと糸があればOKだ。 すぐにバケツ一杯釣れた。 ☆ ”ぼっかん” しの竹にテグスを付ける。 テグスの先っぽに釣り針を付ける。 餌は大概ミミズ。 細長い石を探し、釣り針の上側に縛り付ける。 しの竹の先に鈴を付ける。無ければ付けない。 投げ入れる時、「ぼっかん」と音がする。 鈴が鳴ったら、走ってきて上げる。 鈴無しは、30分位で上げて見る。 魚がかかっている。 台風後などの濁った流れの時は、なぜか ナマズが沢山獲れた。 ☆ ”おきばり” はえ縄漁みたいに、釣り針をいっぱい付ける。 長さは10〜15m位だったろうか。餌はミミズ。 夕方仕掛ける。 錘の石を投げる。これも「ぼっかん」と音がする。 仕掛けの竹竿は、見つからない様に差すのが肝要。 悪ガキが、他人の仕掛けた獲物を横取りしていくのだ。 翌早朝引き上げる。 良く獲れたのはウナギ。 大抵、糸とウナギがきつく絡まってた。 ☆ ”ガラス筌(うけ)” ガラス製の筌だ。 中に入れる呼び餌は自分で作った。 庭先でワラを燃やして、フライパンを炙る。 フライパンの中は、米ぬかと何か入れたが忘れた。 竹竿に紐でガラス筌を縛り付け、沈めて置く。 30分位で上げて見る。 小魚が入っている。 ☆ ”かいどり” 本流から外れた小さい流れの場所を探す。 上流と下流をせき止める。 バケツや空き缶で、水を掻い出す。 魚が残る。 ”ぼっかん”や”ガラスうけ”の待ち時間でやる。 ☆ ”浮釣り” 一番オーソドックスな釣りだ。 この時は自作のしの竹でなく、買った「延べ竿」か 「継ぎ竿」を使っていた。 竿先がしなやかでないと、浮きが引いた時の 合せが難しい。 当時は、竿、テグス、浮、釣り針、タモ、鉛、 みんな駄菓子と一緒に並んで売ってた。 多く釣れるのは、”くちぼそ”。 ”フナ”が釣れれば、大喜びだった。 |
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11/08/15 読書 この所、藤沢周平の本ばかり読んだ。 引き込まれるね。 次々に映画化、ドラマ化されるの分かるよ。 もう本屋にも未読のは殆んど無い。 数えると文庫本が50冊だ。 本棚には、東海林さだおの100冊に次ぐ、 藤沢周平コーナーが出来てしまった。 それにしても、本代もバカにならないなあ。 ☆ で、35年間も飾ったままの、筑摩書房の 「現代日本文学大系」全97巻を手に取ってみた。 揃えたもののその昔”長塚節”と”芥川龍之介”を各1編ずつ 読んだだけだった。 パラパラめくって拾い読み。 手始めに、”水上勉”の「越前竹人形」「越後つついし 親不知」を読んだ。 次に、”夏目漱石”の「我輩は猫である」「坊ちゃん」。 ”川端康成”の「雪国」「名人」「伊豆の踊り子」。 ”太宰治”「走れメロス」。 さらに”曽野綾子”「たまゆら」「べったら漬」。等々。 ”井上靖”の「天平の甍」は読書中。 再読のもあったけど、まあ楽しめた。 比較的ページ数の多くないのを選んだ。 そこで長編の、”島崎藤村”の「夜明け前」に挑戦したいが、 とにかく長ーい。 おまけに旧仮名使いと小さい文字。持続出来る 面白い中味なのか。(藤村さん疑ってゴメン) 中々決行出来ない。 ☆ 図書館にも出向いて借りてくる。 でも、シミや毛が挟まってるのがある。 嫌な気分。 図書館の本、これがだけがいやなんだよな。 |
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11/08/05 朝顔展 ”朝顔展”と言ったって、すごくローカルな話だ。 地元の、この地区の、コミニュティーセンターでの話だ。 でも、30〜40年の歴史があるそうだ。 今年の出品者約40名。 芋太郎、今年初参加。 菊の講習会でもらった苗4本。 2本はオーソドックスな行灯仕立て。 2本はシンプルなラセン仕立てだ。 ところが出品予定して育てた行灯仕立ては 当日花が咲かない。2鉢共。 丹精込めたのに … … この役立たず。 ラセン仕立ての方は一輪ずつ花を付けた。2鉢共。 よしよし、愛(う)い奴だ。 で、補欠だったラセン仕立て2鉢を持って行った。 見回してみた。他のと比べてもビリではなさそうだ。 でも、順位は付けないし、賞も無いそうだ。 ☆ そろそろ終りにしようかという頃、埼玉新聞の記者が来た。 へえ、こんな田舎の朝顔展を取材でっか。ネタ不足でっか。 どうやら市役所で手配したらしい。 撮影の後、公民館長のAさんと栽培指導のAさんに取材。 埼玉新聞は地方新聞。 購入出来る所が少ないのが難点だ。 芋太郎も囲碁大会の棋譜を、5回くらい掲載して頂いた。 でも、自分の載った新聞紙確保に難儀する。 載せてもらって文句を言っちゃあいけないね。 |
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11/07/25 講演会 勤務していた会社は、その昔成人式や記念日等に、講演会 を盛んにやってくれた。 経済は右肩上がりの時代、会社も余裕をこいてた。 芋太郎も度々聴きに行った。 だがなにせ35〜40年前の事だ。記憶に残っているのは 数少ない。 ☆ 大山倍達(おおやまますたつ、極真空手) 当時マンガで、梶原一騎原作、つのだじろう画の 「空手バカ一代」が好評だった。 大山倍達の自伝記で、芋太郎も愛読していた。 空手は寸止めでの組手が主体だったが、大山倍達は異を 唱え実際に打撃する空手を提唱した。 アメリカを修行して回り、極真館を興す。 その大山倍達を講演会に呼んだ。 会社の担当者、マニアックだね。 マンガの中では、牛殺しやレスラーを倒すのが多かった が、講演会ではあまり大ボラは吹かなかった。 ただ、「この椅子に座らせた人を、指一本で動けなくする ことが出来る」と言った。 ☆ 金田正一(プロ野球) 場を盛り上げるのが上手だ。 長島茂雄のデビュー戦での対戦の話。内容は忘れた。 王貞治との対戦の話。 王はもちろん一本足打法だ。 金田投手、今日はいつもよりスローモーションで投げる。 王一本足で待つ、いつものタイミングでボールが来ない。 で、一本足がグラつく。 金田正一、会場を動き回って面白おかしく説明。大爆笑。 ☆ 増田貴光(映画評論家) 今で言うイケメンだ。あおい輝彦風?違うかな。 モデルもやったらしい。 テレビ朝日「土曜映画劇場」の映画解説者として人気が あって、「第二の淀川長治」と呼ばれたとか。 人差し指で視聴者を指差し、 『また、あなたとお逢いしましょう』が決めセリフだった。 クサイ芝居に見えたけど。 クイズ番組の司会、「パックインミュージック」の パーソナリティ、レコードデビューと、売れっ子だった。 其の内テレビでも見かけなくなった。 そしたらこんどは新聞、週刊誌を賑わせた。 「性的不能で離婚」「覚せい剤所持」 「川口松太郎・三益愛子夫妻に対する詐欺未遂」などで 逮捕ときたもんだ。 講演会に呼んだのは人気絶頂の頃。 映画音楽を聞かせ、映画の話をするというスタイル。 話より音楽を聴かせて時間を稼ぐって様子だったぞ。 |
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11/07/15 独り言 地震で壊れた我家の屋根が、やっと直った。 瓦屋さん、「まだ受注の半分も終わってないんだよ」 「今修理できるのは早い方だよ」 瓦も土も職人も、まだまだ不足だそうだ。 ☆ 「サマージャンボ宝くじ」性懲りも無く買ってきた。 最近は”惜しい”のが無い。段々遠ざかってるよ。 ☆ 1955年、人形峠(鳥取・岡山県境)でウラン鉱床が発見された。 原子力燃料公社(現・日本原子力研究開発機構)が採掘開始。 1963年、不採算の為閉山。 その間発生したウラン残土は、45万立方bに達した。 住民らは「国策に貢献したのに、後始末もしないのか」と告訴。 裁判を経て、特に放射線量が高い残土をアメリカ ユタ州の 先住民居留地に搬出。 残りはレンガへの加工を進め、今年6月末最後の一個が搬出 された。 当時公社の人は、防塵マスクを付けて作業指示していた。 鉱山の労働者は、公社の人から「天然の放射能だから大丈夫」 と言われ、防塵マスクは配られなかった。 内部被曝したであろうウラン鉱山の労働者達の、労災認定は 無視されてるそうだ。 (以上は、7月7日付毎日新聞より抜粋) 過去に学ぶのは難しいのでしょうかね。 利権を貪る人達の思惑で、世の中は進むんだ。 ☆ ホームページは3年目に入った。 アクセス数7,000。まあ堅調というところか。 むかし会社の社内教育で、『企業の目的は継続である』と 教えられたことがあった。 じゃあホームページの目的も継続だろう。 マンネリにならん様に心しよう。 |
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11/07/05 菊 地区の菊栽培の講習会に行った。 9号菊鉢とスコップを持参して。 講師は農家のAさん。 Aさん、日頃から土や野菜の事に詳しいと思って いたが、菊や朝顔も詳しい。 ・腐葉土は葉が分解して減っていくから、鉢に 多めに入れ、棒で叩いて固める。 ・水を多くやると根を張らないから、少なめに。 ・西日を嫌うから、家の東側に置く。 その他、アブラムシ対策、肥料等教わる。 朝顔についても同様に教わる。 ☆ 菊苗3本、朝顔苗4本等も頂いた。 その昔、3本仕立ての厚物をやった記憶がある。 手入れが面倒くさかった様な気がする。 だからスプレー菊だけにした。 |
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